花のお江戸はリサイクル天国

私たちは今、深刻なごみ問題、環境問題に直面している。一方、現代のような大量消費という概念がなかった江戸時代、100万人という当時の世界トップクラスの人口を誇った江戸でも、幕府がごみ問題に頭を悩ませていた。そのような中、今でいうリサイクルと言える技術や商売が成り立ち、さまざまな職人が存在していた。そこで、昨年、開府400年を迎えた江戸が高度な循環型社会として機能していた側面に迫る。

大江戸八百八町にもあったごみ問題

「政助さん、今度、長屋のごみを川っぺりに運ぶのはいつだったかい?」私たちが燃えるごみの日などを気にするように、江戸時代の庶民の日常にもごみ問題があった。江戸中のごみは、永代浦に集められ、夢の島のように江戸湾に埋め立てられていた。今の永代島や越中島の辺りは、江戸時代に造られたウォーターフロントだったのだ。江戸の社会・文化が成熟していく中で、ごみ処理についても整備が進んだ。ただ、ごみの種類も生ごみや灰がほとんどで、これらは1年も経てば自然に分解するものだった。

江戸の開発と人口増加

徳川家康は江戸城を整備するとともに、江戸の町割を実施した。まず江戸城のすぐ下まで入り込んでいた日比谷入り江が埋め立てられ、神田、日本橋、京橋などの下町ができ、ここに駿府や上方をはじめ全国から商人や職人の集団がそれぞれの親方に率いられて移住し、同業者集住を原則とする町屋(一般庶民の居住地)が成立した。町屋は原則として京間六十間(120m)四方の正方形街区を基準とする碁盤目状の道路割りが行われ、道路沿いに奥行二十間(40m)の町屋敷が配置された。町屋敷をとった残りの中央部には二十間四方の「会所地(かいしょち)」(図1)と呼ばれる空き地がとられ、慶安時代に禁止されるまで、多くはごみ捨て場として使用されていた。明暦の大火(1657)以後、飛躍的な人口増加に伴って町割の整備も広範囲に及んだ。

慶安以降、整備されたごみ処理

江戸の初期、人々はごみを屋敷内に埋めたり、川や堀に投棄したり、会所地に捨てていた。付近の住民は悪臭や蚊、ハエなどに悩まされていたようである。頻発する火事を防止する意図から外でごみ焼却を行うことを禁じる通達はたびたび出ていたが、慶安二年(1649)、奉行所が「町触」を出し、「会所地」へのごみ投棄に対する禁令を出している(図2)。また、明暦元年(1655)には、深川永代浦をごみ投棄場に指定した。当時は葦の茂った干潟だった永代浦は、以後、江戸の人々のごみによって埋立が進み、新田が造成された。深川一帯は数多くの町が成立して料理屋、茶屋が軒を並べて繁栄することになる。寛文二年(1662)、日本橋を境に江戸の町を南北に分け、幕府の許可を受けた「浮芥定浚組合(うきあくたじょうざらいくみあい)」の請負人仲間が鑑札をもらい、一定の場所に集められたごみを芥船で収集して運搬・処理するようになった。これにより、ごみの収集・運搬・処分を公的に執行する体制が確立された(図3)。これらの政策は、実施にあたり住民の生活に合うよう調整され、町奉行は法令を出す際にその可否を町に問い合わせてから行うこともあったという。江戸のごみ処理システムが比較的早い時期に整備されたのも、住民の知恵が活かされていたことが大きな要因だった。

図2/「江戸時代のごみ処理に関する通達」
出典:平成13年版循環型社会白書 環境省

時代(西暦) 当時の将軍 歴 史 出 典
慶安元年(1648) 家光(3代) ごみによる街路の補修を禁止するとともに下水溝へのごみ投棄を禁止 正宝事録
慶安二年(1649) 家光 ごみを会所地に捨てることを厳しく禁止 正宝事録
明暦元年(1655) 家綱(4代) 永代浦をごみ投棄場に指定し、昼間にごみを投棄するよう通達 享保集成
寛文二年(1662) 家綱 ごみ投棄船による収拾・運搬を行い、他の場所へのごみの不法投棄を禁止 麈芥永久録
寛文三年(1663) 家綱 ごみ処理の請負人を指定し、鑑札を発行 麈芥掃除史
寛文三年(1663) 家綱 ごみの収拾料金を定めた(1間口の長さに対して1分の料金とした) 東照宮本
元禄九年(1695) 綱吉(5代) 永代橋をごみ投棄場に指定  
享保十五年(1730) 吉宗(8代) 越中島をごみ投棄場所に指定  

図4/「天保十三年(1842)南鍋町一丁目居住形態図」より
資料提供:東京都中央区立京橋図書館 ※現在の銀座5丁目三笠會館付近

清潔な江戸を可能にしたさまざまなリサイクル

江戸の都市の面積のほとんどは武家屋敷で占められていたにもかかわらず、町方人口は武士とほぼ同数だったといわれている。町方には、表通りに町屋敷を持つ地主層と、土地は持たないものの表通りに土地を借り持つ地借層、表通りに面しない裏長屋に住む店借層がいた(図4)。表通りでは商売が営まれ、裏長屋では店の奉公人や職人、行商人など江戸の大部分の庶民が生活していた。裏長屋では「九尺二間(四畳半の畳と台所を含め約六畳)」に一家で住み、慎ましく暮らしていた(写真1)。人々は、使ったものをすぐごみとして捨てるのではなく、別の使用方法を考えて再利用していたようだ。江戸には、リサイクルを成立させる350種以上の職人達が存在していた。

図3/「江戸のごみの収集・運搬・処理のフロー」
出典:平成13年版循環型社会白書 環境省

ごみをごみにしない資源循環の代表 ーし尿、灰、稲藁

江戸庶民の暮らしの中で、リサイクルされてきたものの代表例として、し尿、灰、稲藁がある。江戸初期には排泄物は川や堀に流されていたが、江戸近郊の村々で農作物を作るための貴重な肥料として売買されるようになる。し尿を肥料にして栽培すると野菜類が早く育ち、品質が格段に良くなった。長屋の雪隠(せっちん:共同トイレ)(写真2)から汲み取られる下肥は大家の収入となり、年収の半分を占め、「店中の尻で大家は餅をつき」と揶揄されるほどだった。

江戸に下肥問屋ができるようになり、し尿代は次第に高騰した。ついに寛政三年(1791)には、江戸近郊1,016村の農民が連合し、町奉行所に値下げの嘆願がされた。そこで奉行所は下肥問屋の汲み取りを禁止したものの、相変わらず買い占めは続き、農民は野菜と交換する桶買いを行うようになった。近郊の農作物に頼る江戸では、野菜も高値で売れた。『南総里見八犬伝』の人気作家・滝沢馬琴は、神田明神下の一戸建てに妻と息子夫婦、娘、孫2人の7人で暮らしていたが、下肥取引をしている農家が15歳以下は2人で大人1人分とし、馬琴が期待していたナス300個が250個にされて激怒したという逸話が残っている。

井原西鶴の『好色一代男』の主人公のモデルは灰屋の豪商といわれているが、これは、薪や炭から出る灰を集めて売る商売で、集められた灰は、農地の土壌改良剤や、補給肥料として使われていた。
また、アルカリ性の灰は、酒の酸化を中和したり、和紙や絹・麻の繊維を分離するために利用されたり、染料の色調の調整、陶器の釉薬、洗剤等にも使用された。

米づくりで発生する稲藁は、草履や蓑などに使用されるほか、建築材料や肥料としても活用されていた。街道沿いには、履き潰された草履が積み上げられ、農家が堆肥として使用していた。

“鉄”は貴重な資源として循環していた

江戸の人々は中古品を何度も手直ししながら、使用していた。例えば、庶民の着物は古着が当たり前で、同じ着物を夏と冬で綿を入れ替えながら着倒し、赤ん坊のオムツやぞうきんとしてボロボロになるまで使用された。また、壊れた鍋などは「鋳掛け屋」がふいごと炉を使って、溶かした金属板で修繕していた(図5)。このように江戸の町にはさまざまな修理業者が存在した(図6)。

 

図6/江戸時代のおもなリサイクル業

【職商人】
修理業が本職、時には新品の販売や下取りをやった。
錠前直し 錠前を道具箱の外側に見えるように歩き、修理にまわった。ほとんどの江戸庶民は錠前や鍵に無縁だったので、金物一般の修理を兼ねる者もいた。
羅苧屋
(らおや)
煙管の修理業者。煙草を詰める雁首と口に加える吸い口の間は、羅苧という細い竹でつないである。そこに詰まったヤニを取り除いたり、取り替えたりした。
【修理・再生業者】
壊れて使用できないものを、使えるようにする専門職人
鋳掛け屋 金属製品の修理専門業者。道具を持ち歩いて、古い鍋や釜などの底に穴があいたものや折れた燭台をその場で修理した。
下駄の歯入れ 歯のみ交換可能な下駄があり、すぐに磨り減る下駄の歯の部分だけ抜いて新しいものに差し替えた。
瀬戸物の焼き接ぎ 割れた陶磁器を白玉粉で接着し、加熱して焼き接いだ。
【回収業者】
不要の品物の売買、交換、下取り等を行う業者
紙くず買い 古紙回収業。紙製品を買い取り、再生紙をつくる古紙問屋に売っていた。
古鉄買い くず鉄を買い取り、鍛冶屋などに売った。
古着屋 固定店舗もあったが、行商も発達していた。仕立ててある古着だけでなく端切れなども売っていた。
蝋燭の流れ買い 蝋燭が燃えた後に残ったしずくを秤で目方を計って買い取っていた。

 

生活に必要不可欠で貴重な資源だった鉄は、現代と同じように溶かされて何度もリサイクルされた。そのため、当時の鍬などの農具で現存しているものはかなり少ないという。修理できなくなった壊れた鍋や折れた火鉢、錆朽ちた包丁などのくず鉄は、「古鉄(ふるかね)買」が秤を持って回収し、鍛冶屋や問屋、職人などに売っていた。

江戸市中の古鉄買は享保八年(1723)には1,116人にのぼり、当時のリサイクル業者全体の19%を占めたという。このとき古鉄買は株仲間を組織し鑑札を渡された(図7)。以後、鑑札を持たないものは古鉄買ができなくなり、鑑札を持つものが取り締まりも行っていたという。というのも、たびたびの禁令にもかかわらず火事場の焼け跡で焼金物を拾うものがいたからだ。当時3両あれば1年間暮らせた時代に、古鉄買は一人あたり年間30両ほど稼いでいたという。

おわりに・・・

植物資源や自然エネルギーに依存していた江戸は、究極のエコロジー社会だったといえる。魚の油で灯を取り、残ったかすは、し尿などと同様に有機肥料になり、そこに虫や鳥が集まり武蔵野の荒地に豊かな雑木林が形成された。武蔵野の台地の豊かな水が江戸湾に注ぎ込み、海藻や魚介の栄養源になった。産業活動と自然が一体となった循環社会が実現していたのである。

現在は、循環しないものをいかにリサイクルしていくかが、大きな課題となっている。古代から人類に利用され江戸時代もリサイクルされてきた鉄は、現代の工業社会においても早い段階で環境負荷の低いリサイクル体制が確立され、高いリサイクル率を示している。

 

 

なぜ江戸時代にリサイクル社会が成立したか

昨今、リサイクル社会としての江戸時代に注目が集まっています。江戸時代のリサイクルを可能とする前提条件のひとつに都市の成立がありました。江戸時代にはいると、江戸、大坂、京都といった巨大都市以外にも、現在の地方中核都市の前身となる城下町が出現します。都市では食料生産の機能が弱く、生産地と消費地の空間的分離がおきました。しかし、都市が成立するためには、食料などの必要物資の流通が整っていることが不可欠でした。農村から都市へ食料が運ばれ、都市から農村へし尿が運ばれるというリサイクルは、こうして発生した消費地と生産地との空間的な分離という歴史上かつてない事態のひとつの帰結として成立しました。

江戸時代、都市-農村間におけるし尿のリサイクルがうまく成立した背景には、もうひとつ重要な要因がありました。それは、し尿自体が現在と違って市場価値をもっていたからに他なりません。ヨーロッパ社会では、し尿が窓から投棄され、路上が大変不衛生であったことはしばしば指摘されます。これに比べて江戸時代は、し尿が農村へうまく還元しており、路上に放置されることは例外的でした。江戸を訪れた外国人が一様にその清潔さを指摘する原因はそこにあったといえます。しかし、江戸時代のこうしたリサイクルが成立した根本的な原因は、し尿を肥料として使う習慣の有無に求めることができます。江戸時代以来、日本はし尿を肥料とした食料生産をおこなっており、し尿が市場価値を持ち得たのはそのためなのです。鉄などの希少な資源は、その使用価値の高さもあいまって、鉄屑となっても市場価値を持ち得ました。し尿も都市における不要物でしたが、農村においては有用な肥料として市場価値を持ち得たのです。し尿が農村へと環流していったのは、経済原理にのっとった当然の経済行為といえます。しかしリサイクルのもっとも難しい点は、市場価値のない不要物をいかにリサイクルの輪に乗せるのか、という点にあります。したがって、江戸時代がリサイクル社会の手本であったという発想はやや単純で、現代でも市場価値のない物に新しい市場価値を付与し得るような技術開発が求められるということを再確認するにとどまるのかもしれません。

また現在においては、故障した製品を修理に出すか、これを廃棄して新品を買うか迷う際、修理代が判断基準となります。この修理代の大半は人件費です。人件費という概念は江戸時代にはありませんでした。江戸の職人たちにとって、1日の労働は、3度の飯の足しになる程度の代金と均衡していました。まだ直せるものを捨てて新しい製品に買い換えるという選択は、経済的に成り立たなかったのです。また、「質素倹約」というのは、当時は説教ではなく身に染みた行動律であったといえます。

社会や人々の価値基準が大きく異なる江戸の暮らしをそのまま現代に当てはめることは無理な話です。しかし、その質素で合理的な暮らしぶりを心に留めたり、市場価値のない廃棄物に価値を持たせる技術を発想するという意味で、江戸から学べることはたくさんあると思います。(談)