金属・木工製品の製作および整備に使われるヤスリ。江戸時代にはその需要が最盛期を迎え、江戸市中にヤスリ専門の職人が開業していたと言われている。今回は、その江戸ヤスリの伝統的技法を祖父の頃から3代守り、現代に継承する江戸ヤスリ職人、深沢敏夫さんを紹介する。

東京都台東区上野。下町風土が色濃く残り、古くから貴金属店が立ち並ぶこの場所に深沢氏が経営する「深沢やすり店」はある。かつて同じ台東区内だけでも20軒ほどあったヤスリ製造業も、現在では深沢さんの一店舗のみとなり、完全に手作りでヤスリを製作できる職人も、全国でわずか10人しかいない。

深沢さんがこの世界に入ったのはわずか10歳のときだった。実父である2代目と住み込みで働いていた職人の製作現場を傍らで見ていて、必然的にこの世界へ入る意志が芽生えたという。

「当初は、ただ何となく家業を継ぐといった感じでしたが、次第にヤスリ作りの面白さがわかってきました。また、自分で作品の値段をつけられる点も魅力です。自分で自分を評価することによりプロ意識が養えたのだと思います」

卓越した技術は他の追随を許さない。ヤスリ作りで最も重要なポイントで集中力が必要な「目立て」の工程において、驚くほど速く、正確に、金槌で鏨(たがね)を鋼に刻んでいく。完成した作品を見ると、まるで定規で測ったかのような正確な目が刻まれている。

深沢さんが製作する江戸ヤスリは、楽器用、医療用、釣具用など実に多岐にわたる。あくまで顧客のニーズに合わせた独自の規格を持ち、手作りならではの味のある、使いやすさを重視したヤスリの製作を心がけている。江戸ヤスリの代表的なものに、細微な先端部分にまで刃が打ってあるものがあるが、これは細かい装飾が施されている工芸品などを研磨するために欠かせないヤスリで、全国の職人・工芸作家から絶大な信頼を集めている。また、昨今の美容・健康ブームの影響からか、足のかかとを削るヤスリが女性の間で好評を得ているが、こういった注文にも一本一本快く応じてくれる。

現在、地方からの修学旅行生や外国人工芸作家に対しての公開実演や、催事などへの参加など、宣伝や技能継承への活動にも力を入れている。道具として江戸ヤスリの価値が再評価され、さまざまな業界からのニーズが高まる一方で、後継者の不在は深刻な問題だ。

鉛や劇薬を使用する職場環境を敬遠する声や、技能の習得に多大な時間を要する(鋼を打つときに使う鏨を作る技を習得するだけでも10年はかかる)ことから、現実的に後継者の育成は不可能に近いという。

「後継者が見当たらない今、機械では到底作れないような、世界にたったひとつしかない作品を手作りし、後世に残していくことが私の夢であり使命です」

深沢さんが手がけるヤスリの一本一本すべては、「使う人」のために作られたヤスリである。機械による量産化が進み、生産者側の都合で製造されるヤスリが主流となっている今、合理主義により見失われた「本質」を見つめ直す必要がある。