スチール缶の歴史

食品・飲料容器として果たしてきた役割を探る

本誌では、スチール缶リサイクル協会が数十年来社会に寄与する目的で取り組んできたスチール缶の散乱防止や再資源化を推し進めるため、環境美化や3R推進の最新のさまざまな取り組み情報を取り上げてきた。今回はこのスチール缶そのものの誕生から現在の普及までの経緯を振りかえることで、社会に果たしてきた役割を再認識してみたい。

缶詰の誕生 豊かな生活を支える加工食品

1804年 フランスで缶詰原理を発明
—長期保存を可能にした密封殺菌

缶詰の原点は、1804年にフランスでニコラ・アペール(写真1)が缶詰製造原理を発明したことにさかのぼる。時代はフランス革命後に皇帝となったナポレオン・ボナパルトが、ヨーロッパ戦線を東奔西走していた頃。ナポレオンは軍隊の士気を高め戦闘力を維持するため、戦線で栄養があり新鮮な食料を大量に供給する必要性を痛感し、新たな食品貯蔵法を懸賞金つきで募集した。アペールはコルクで栓をしたガラスびんに加熱殺菌した食品を封入するという缶詰製造原理の発明によって、ナポレオンの懸賞金を手中に収めた。

アペールの缶詰製造原理の発明から6年後の1810年に、イギリス商人のピーター・デュランが、食品保存用容器にブリキ缶を使うことを考案し特許を取得。1812年にはイギリスで世界初の缶詰工場が設立され、スープや肉野菜混合煮の缶詰が製造された。それまで乾燥・塩漬け・燻製・発酵などによって食品の賞味期間を延ばす工夫がされていたが、缶詰の誕生によって、食品本来の味と栄養をほとんど損なうことなく長期保存することが可能になり、しかもどこへでも効率的に持ち運ぶことができるようになった。缶詰の誕生について、(社)日本缶詰協会の沼尻光治専務理事は次のように解説する。

「缶詰は密封と殺菌の技術を併用することで長期保存を確立し、内容物の経時変化を非常に遅くすることに成功しました。では、なぜ容器はびんではなく缶でなければならなかったかというと、食品を経時変化させる要因に紫外線があります。びんは無色透明から着色までいろいろありますが、缶のように紫外線を完全には遮断することはできません。長期保存を可能にする容器として、缶が遮光性に優れていたからです。しかし缶詰には当初、密封性に弱点がありました。それを二重巻締法(図1)という技術を確立することで、製品としての安全性は飛躍的に高まり、その後の普及につながりました」

スチール缶リサイクル協会では、リサイクル率を算出するための再資源化重量の精度をより上げるため、2008年度からシュレッダー処理され製鉄原料として再商品化されたスチール缶重量の調査を開始した。

調査は全国8ブロック(北海道、東北、北陸、関東、東海、近畿、中四国、九州)に分け、シュレッダー処理量の多い鉄スクラップ取扱事業者を個別訪問して実施。その結果、約30社で再資源化されていたスチール缶重量を把握した。スチール缶リサイクル協会は2009年度以降も調査を継続し、スチール缶リサイクル率の詳細な実態把握に努めていく。

1877年 日本で缶詰商業生産が始まる
—消費者に貢献し隆盛した缶詰産業

日本では1871(明治4)年、長崎で外国語学校の司長を務めていた松田雅典が、フランス人からイワシ油漬缶詰の製造法を伝授され、試作したのが始まりであった。そして1877(明治10)年、明治政府が産業振興と外貨獲得の一環として、北海道開拓使石狩缶詰所(写真2)でサケ缶詰(写真3)の商業生産を開始し、1878(明治11)年のパリ万博に缶詰を出品することで欧州向け輸出に道筋をつけた。1881(明治14)年頃の缶詰の値段は、1缶が白米1升(約1.5kg)の2倍以上と非常に高く、当初の主な需要先は欧米向け輸出と陸海軍であった。

缶詰は長期保存でき、中身の種類が多く、すぐに食べられ栄養価もあり、コンパクトで携帯性に優れていることから、日清・日露戦争では軍用食として不可欠になった。大量生産することでコストが下がり、従軍していた人たちが戦地で食べた缶詰のおいしさを思い起こしたことで、次第に国民の食生活に浸透していった。缶詰産業はこうして消費者に貢献することで隆盛した。

缶詰は第二次世界大戦後も外貨獲得のための重要な輸出物資として、1950(昭和25)年には輸出高が生糸に次いで第2位となり経済復興をけん引した。また家庭での冷蔵庫普及率がまだ低かった昭和30年代には、缶詰は常温で流通・保管できることから国内加工食品市場の主役として、国民生活の安定のための食糧確保に大きく貢献した。

「現在さまざまな加工食品が流通していますが、その原点は缶詰技術にあります。缶詰は室温で長期保存でき、しかも中身をすべて食べることができ生ごみの発生を抑え、食べ終わった後に残る缶もしっかりリサイクルされています。缶詰はまさに地球環境にやさしい加工食品と言えるでしょう」(沼尻光治専務理事)。

飲料缶の普及 手軽な飲みやすさを提供

1954年 日本初の缶ジュース発売
—紫外線を遮断しビタミンCを保護

日本で缶飲料が初めて製造販売されたのは1954(昭和29)年、明治製菓(株)が缶入りオレンジジュース(写真4)を東京地区で発売したことに始まる。オレンジジュースは第二次世界大戦後、アメリカからびん入り商品がもたらされ、全国に広がっていた。そのため容器はびん入りが常識となっていた。明治製菓(株)でも1952(昭和27)年にびん入りオレンジジュースを発売したばかりであったが、その直後なぜ缶入り商品を開発したのだろうか。

「びんはオレンジジュースに含まれるビタミンC が、熱や紫外線で壊れてしまい、短期間で色や味が変質してしまう欠点がありました。一方、缶は紫外線を遮断できるため、色や味、ビタミンC などの栄養分が保護される利点があります。当社は1936(昭和11)年からみかんの缶詰を発売しており、そういったノウハウが活かされた商品開発であったと思います」(明治製菓(株)広報室)。

明治製菓(株)は1957(昭和32)年、缶入りオレンジジュースの全国発売を皮切りに、各種缶ジュースを次々に発売。他の清涼飲料メーカーも相次いで缶ジュースを商品化した。缶ジュースは栄養分を損なうことなく内容物の長期保存を可能にする機能性とともに、どこでも手軽に飲める利便性が受け入れられ普及していった。

1958年 日本初の缶ビール発売
—内面塗装で金属臭を克服

日本で缶ビールが初めて製造販売されたのは1958(昭和33)年、朝日麦酒(株)(現アサヒビール(株))が発売したことに始まる(写真5)。缶ビール開発の歴史は、1935(昭和10)年にアメリカで缶ビールが発売されたことがきっかけで、1936(昭和11)年に大日本麦酒(株) (現アサヒビール(株))が製缶メーカーと共同研究したことにさかのぼる。しかし日本では日中戦争の際、清酒を缶に入れて戦地に送ったところ、金属臭が強く缶詰は無理だとするのが定説となってしまい、研究開発は途絶えた。

それが第二次世界大戦後、アメリカ兵が持ち込んだ缶ビールがきっかけとなり、1957(昭和32)年に製缶メーカーと共同研究開発を再開し、缶の内面の金属露出をカバーする内面塗装の開発などの実用化に向けた動きが加速した。この年、大阪大学発酵工学教室がビール缶の官能検査を実施した結果、国産缶ビール(試作品)、びんビール、アメリカ製の缶ビールとの間に容器による味の差異はないことが判明した。朝日麦酒(株)でも詳細検査を行い、金属臭を含めた品質を確認。こうして日本初の缶ビールが開発された。アサヒビール(株)では、日本初の缶ビール誕生の意義を社史の中で次のように記している。

「びんビールを飲むにはグラスがつきもので、どうしても屋内中心ということになる。しかし缶ビールは軽く、割れることがない。コップ兼用になり、どこへでも移動可能だ。また、自分なりのペースで手軽に飲める。缶ビールの登場は、ビールの飲み方、機会が無限に広がることを教えてくれた。それは、新しいビールの世界の扉をひらくこととなったのである」 日本初の缶ビールは、当時の消費者のニーズにマッチし、大きな飛躍を遂げることができた。

1969年 世界初の缶コーヒー発売
—特殊コーティングで風味を保つ

どこでも手軽に飲める、缶飲料の申し子と言えるのが缶コーヒーだ。缶コーヒーの歴史は、UCC上島珈琲(株)が1969(昭和44)年に世界で初めて製造販売した日本発のオリジナル商品から始まる(写真6)。

缶コーヒーの開発は、創業者の上島忠雄氏がある日、駅のホームでびん入りのコーヒー牛乳を飲み残したまま列車に乗り、「もったいないことをした」「缶入りコーヒーにしたら、いつでも、どこでも飲めるはず」という思いを抱いたことがきっかけとなった。

缶コーヒー開発は、殺菌処理することで風味が変わってしまうという技術的課題があった。缶コーヒーは乳製品であるため、清涼飲料のような低温殺菌ではなく、高温・高圧殺菌しなければならず、どうしても加熱臭が生じコーヒーの味を損なった。また従来の缶では、缶の鉄イオンがコーヒー成分の一つであるタンニンと結合して化学反応を起こし、コーヒーを真っ黒にしてしまった。

上島氏は「このブラックコーヒーは飲めんぞ!」と言って技術陣を笑わせつつ檄を飛ばしたという。味覚はミルク・砂糖とコーヒーの比率など、いろいろ調整することで解決できたが、缶との化学反応が商品化への最大の難関となった。UCC上島珈琲(株)は製缶メーカーの協力を得て研究開発を続け、缶の内面塗料の改良や特殊コーティングを施すことで化学反応を防ぐことに成功した。

世界初の缶コーヒーは1970(昭和45)年、大阪万博で脚光を浴び需要を伸ばした。これは3月に開幕した万博会場で缶コーヒーを飲んだ人たちの返り注文が、夏場になって殺到したことが大きな原動力となった。

1975年 缶飲料自販機の普及
—物流・衛生・環境面で扱いやすい容器

自動販売機の登場によって缶飲料の需要はさらに拡大した。中でも冬に温かい飲料を飲みたいという消費者ニーズに応え、ホット&コールド缶飲料自販機が開発されると、まず缶コーヒーの消費拡大に大きな威力を発揮し、1975(昭和50)年頃から急速に普及したことが大きな転機となった。

飲料自販機は1957(昭和32)年にカップ式ジュース自販機が登場し、1962(昭和37)年にはアメリカの大手コーラ会社が日本市場に本格進出する際にびん自販機を持ち込んで驚異的な売上を伸ばしていた。飲料自販機の容器は昭和40年代半ばまで紙カップ、びんが主流であった。なぜ缶へと移行したのか。一般社団法人日本自動販売機工業会の黒崎貴専務理事は次のように解説する。

「缶飲料が製造・販売段階で食品衛生法上に規定する規格をクリアしているのに対して、カップ式は自販機内で攪拌やドリップをするため営業許可を必要とします。自販機の構造はカップ式よりも缶用の方が簡単で単価も安く、手軽に運営できることが普及の大きな要因となりました。また、びんは配送の際、重くデッドスペースが大きいため、物流輸送の効率の面で缶に移行していきました」

缶飲料自販機は、アメリカの技術を導入しているが、細かいところで日本独自の工夫が施されている。例えばアメリカでは、缶を収納する際、直列ラックといって上から垂直に入れるため、落下の衝撃で缶がへこみ壊れてしまうことがあった。日本では缶の筒形状に合わせて蛇行状に収納する自販機が開発され、破缶を防止し効率的な商品販売を実現した。

「消費者の飲料に対する信頼・容器に対する信頼・自販機に対する信頼が、欧米よりも高かったからこそ、日本で自販機は普及しました。一方、飲料を屋外で買う機会が増えたことで、容器のポイ捨てが社会問題化しました。これはモラルの問題ではありますが、飲料業界では自販機脇に回収ボックスを設置し、あき缶容器散乱防止や容器リサイクルを推進してきました。各種容器は回収しさえすればリサイクルすることができ、環境面に優れ扱いやすいと言えるでしょう」(黒崎貴専務理事)。

スチール缶のいま
—資源循環型社会への貢献を目指して

缶飲料の需要拡大の背景には、消費者にとって手軽に飲めるスチール缶の利便性が大きな魅力としてあった。しかし廃棄される容器の量や生産に使われる資材の量が増えると、環境保全や資源の有効活用が求められる時代になった。

スチール缶リサイクル協会は、30年以上にわたり、あき缶のポイ捨て散乱防止を呼びかけるとともに、資源化施設への支援やスチール缶のリサイクルルートづくりなど、自治体の分別収集システムづくりのサポートを推進した。その結果、現在では全国の自治体に分別収集システムが構築され、スチール缶のリサイクル率は常に85%を超える高い水準を誇っている。

またスチール缶は長年の素材・製缶技術の研究開発により、大幅な薄肉・軽量化(リデュース)を実現してきた。スチール缶には陽圧缶と陰圧缶の2種類がある(図2)。陽圧缶は、内容物に炭酸ガスを含有した炭酸飲料やビールのほかに、窒素を充填して陽圧化したお茶や果汁飲料に使われて、1缶の製品板厚が極めて薄い。一方、コーヒー飲料などに使われている陰圧缶は、高温高圧下で殺菌消毒(レトルト殺菌)をして飲料の品質・安全性を確保するため、ある一定の強度と板厚が必要とされる。長年の研究により現在のスチール缶は完成度の非常に高い容器と言えるが、強度を確保しながらさらなる薄肉・軽量化を目指し、素材・製缶技術の研究開発が続けられている。

スチール缶は食品・飲料容器として、このような歴史をたどり、今日の私たちの豊かな食生活を支えるとともに、ライフスタイルに合った飲食品を消費者に提供している。