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STEEL CAN AGE

MAIN REPORT

「鉄」・・人類と共に


スチール缶に使われている鉄は、その強さと資源の豊富さ、素材としての歴史、人間生活との関わりの深さ、経済的安定性、そして比類のない汎用性などの優れた特性から、例えば、鉄道、自動車、建築物、家電製品、橋梁など、私たちの暮らしに深く根ざした欠かせない素材だ。今回のメインレポートでは、人類史において“鉄”が果たしてきた役割にスポットを当てて、スチール缶だけでなく、社会資本、生活に欠かせない“鉄”の存在価値を再認識したい。

豊富な資源 ~最大の金属資源“鉄”

金属などを製品の材料にするためには、材料生産に必要なエネルギーが少ないことに加えて、その金属の埋蔵量、さらには採掘できる量が多くなければ安定供給できず、社会生活に浸透しない。鉄は可採埋蔵量で断然トップの金属資源だ(グラフ1)。鉄鉱床としての鉄の埋蔵量は膨大であり、地球重量の3分の1を占めている。アルミの原料であるボーキサイトの10倍もの鉄鉱石が地球には眠っているのだ。しかもその鉄鉱石は世界の大陸に分布しており、経済的な露天掘りという方法で採掘できる。つまり簡単に安く入手できる。これが鉄の大きな魅力だ。例えば、精米の価格と比較すると、昭和30年代後半を境に鉄(ブリキ)の価格が下回り、例えば、現在では“あきたこまち”1tの精米価格で約9tの鉄(ブリキ原板)を購入することができる。

グラフ1/金属資源の埋蔵量と世界生産量
出典:「材料技術・エネルギー技術のトレンドと資源物理学的見直し」(文部省 重点領域研究 1995)徳田昌則論文

また、土壌に鉄が含まれるということは、食事を通して人体にも鉄があるということを意味する。血液中の赤血球には鉄分を含んだヘモグロビンという細胞があり、人間が生きていくうえで欠かせない酸素を運んでいる。鉄分が不足すると血液中の酸素が減り貧血などの体調不良を引き起こす。地球からの鉄分を吸収したさまざまな食料を摂取することが人間にとって欠かせない。一般的に、70kgの男性の体内には約6gの鉄があると言われるが、ヘモグロビン以外にも人間の体内には鉄を含むたんぱく質が数多くあり、最近では、「シトクロムP-450」という鉄たんぱく質が、薬品の代謝やホルモンの合成に深く関わることがわかり、新薬の研究開発にも役立っている。

権力の象徴 ~古代王家に存在した“鉄の剣”

人間が初めて“鉄”と出会ったのは、約7000年前、宇宙から原野に落ちた「隕鉄」(写真1)を見つけたオリエント時代まで遡る。当初は隕鉄に含まれる鉄を利用して装飾品などをつくっていた。古代オリエントにはエジプト語で、「天よりの黒い銅」、シュメール語で「天の金属」という、人々からの畏敬の念を集めた金属が存在したが、それらは「隕鉄」だと言われている。シュメール人のウルの遺跡から発見された、紀元前3000年頃の鉄片も隕鉄だった。

そして装飾品とともに古代の代表的鉄製品として知られているのが「剣」だ。紀元前3500年頃、古代エジプトに君臨したツターンカーメン王の豪華な遺品の中に、水晶の柄が付いた鉄製の短剣がほぼ原型のまま黄金の鞘におさまっていた。一方日本でも、天皇家に代々伝わる三種の神器の一つ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)があり、門外不出のため現在でも神秘のベールに包まれたままではあるが、通説では鉄製の剣だと言われ、また、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、雄略天皇の墓であることを示す有力な文字が刻み込まれていた。さらには「古事記」の中でも、勇敢な「すさのおのみこと」が「やまたのおろち」という大蛇を退治した際に、鉄でできた刀を使ったと言われている。

その後、武器や道具としての鉄精錬が盛んになったのは紀元前2000年頃のヒッタイト王国で、国家の保護のもと製鉄業を営み、技術力を誇示するために近隣諸国の王に鉄剣を贈っていた。ヒッタイト王国の強さの秘密は、その優れた鉄製の武器にあったとされ、鉄器をオリエントに伝えるとともに、メソポタミアやエジプトの文化をエーゲ海やギリシアに伝える役割も果たした。

このように人類の古代史において王の権威や国力を象徴する剣が鉄製だったという事実は、当時鉄が貴重品だったことに加えて、鉄の強さが認められ、それが古代国家にとって重要な役割を果たしていたことを示している。また、ヒッタイト王国から鉄器の製造・使用技術を学び取ったアッシリア人は、紀元前671年にエジプトを征服し、初めてオリエントの統一を達成したが、アッシリア王国の遺跡から150tにも及ぶ鉄器が発掘されたことを見ても、オリエント統一の原動力の一つに“鉄”の存在があったと想像することができる。

生活に不可欠な道具 ~国家統一と民主主義をもたらした“鉄器”

一方、アジアに目を向けると、紀元前1000年頃の帝国「殷」では、青銅をつくる技術が発達し、装飾品や宗教的な道具だけでなく、鍬などの農具まで青銅冶金でつくっていた。しかし、紀元前600~500年頃の春秋・戦国時代、統一国家へと向かっていた時期の「周」において、鉄製の武器や農具が登場する。特に、鉄製農具はこれまで不可能だった黄土台地の開墾を可能にした。農業生産力が高まるとともに、家族による土地の所有も始まり、また治水灌漑などの大事業が権力者の手によって進められることで群県制が生まれ、中国は中央集権的統一国家に向かって歩み始めた。紀元前221年、最初の統一国家として登場した「秦」は、大量の鉄製工具を使って多くの治水灌漑事業を行い、農業生産力を高めることによって誕生したと言われている。その後、「漢」の時代になっても鉄の生産は盛んで、鉄商人は塩商人と並んで巨額の富みを得たが、初期の皇帝・武帝が塩と鉄、酒を国家の専売にするほど、国家経済において鉄の影響力は大きかった。

中国の鉄は、この頃から炭素を多く含み溶けやすい鋳鉄だった。鋳鉄は溶けた鉄を型に入れて固める鋳物。ヨーロッパでは近代製鉄が生まれた18世紀を待たなければ登場しない鉄の鋳造技術を、中国が持っていたのは驚くべき事実だ。例えば中国の伝統的な武器である「青竜刀」でさえ鋳物でできている。武帝がモンゴルの無敵の遊牧国家フンヌに勝ったのも、フンヌが使用した青銅ではない強い鉄の鏃を使ったからだという説もある。鉄の性能は青銅を完全に凌駕し、鉄器の出現と普及を大きな原動力として世界的に社会が動き始めた。

時代が移り、長年、特定の階級によって独占されていた鉄の精錬技術が広く世界に知られると、鉄は一部の権力者にのみ使われていた青銅とは異なり、“民衆の金属”として社会生活に浸透するようになった。農具はその好例だ。鉄製農具は耕地面積を広げ、農業生産性を高め、それがやがて余剰農産物を生み、手工業の発展を促すことになった。こうして人々は支配者からの解放のきっかけをつかみ、生活様式と社会構造は大きく変化を遂げることになった。その最初の舞台が古代ギリシアだ。イギリスの古典学者・ファリントンは「ギリシアの民主主義は、鉄器がなかったら存在していなかった」と語っている。

日本独自の伝統製鉄 ~砂鉄を使った“たたら製鉄”

日本人と鉄の関わりは、いつ頃始まったのだろうか。日本では約2000年前の弥生時代、大陸から持ち込まれる農工具や武器などの鉄器が登場したと言われる。人類史の中で青銅器のあとに鉄器が出現したことが画期的な出来事だったように、古代日本人にとっても社会変革を促すターニングポイントとなった。鉄器の普及により稲作の生産性は向上し、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に“国”が芽生えた。また、古墳時代(3世紀後半~7世紀頃)中期の遺跡からは、鉄製の馬具や甲冑、装身具の副葬が急激に増え、大量の鉄製武器も出土している。

古代日本人は、砂鉄による製鉄技術の習得によって、他の近隣諸民族とは異なる特色を持つことになった。日本では後で紹介する鉄鉱石とコークスによる釜石の洋式製鉄法が登場するまでは、主に木炭によって砂鉄を還元して鉄をつくる「たたら製鉄法」が用いられた。アニメ映画「もののけ姫」でも登場する日本古来の製鉄法だ。“たたら”の語源は不明だが、当初は火力を強める風を起こす吹子(ふいご)を意味し、その後、鉄を沸かす炉、製鉄作業場などを指すようになった。また、砂鉄は砂浜の砂や花崗岩などの中にわずかに含まれる鉄源だったため、熱源となる木炭の補給力が重要となった。

「街道をゆく」の著者・司馬遼太郎は、独自の砂鉄文化論として、「(10世紀以来日本は)鉄器の農機具がふんだんにあって、そして灌漑工事が容易にできる好条件をもっているわけです。土地についての競争心の非常に盛んな武士というものを成立させる。そこでいわゆるエコノミック・アニマルといいますか、競争心の盛んな日本人ができ上がるわけです」と述べている。例えば、鎌倉幕府の誕生は、公有制にあった農地で働く農民が西日本から自由な関東に移り、鉄製農具で耕作を始め、そこを自分たちの領地として主張したことに端を発していると言われる。

たたら製鉄からつくられる鉄は、鍋や釜になる硬くて脆い鋳鉄、折れにくいが硬さにかける錬鉄、そしてその中間の硬さと、ある程度の柔らかさを持つ鋼鉄に分類される。錬鉄、鋼鉄は、叩き延ばし鍛えることによって、強靭な農具や武器となった。たたら製鉄は原始的な製鉄法の中で世界で最も進んだ製造法と言われ、自然と技術と人の心が一体化した“土着の文化”であり、長い歴史の中で工夫されて質の高い「和鋼=玉鋼」を生み出した。玉鋼は不純物が少なく錆びにくく硬さと粘りを持つと同時に、叩いたり磨いたりしやすく刃物に最も適した鉄だと言われる。

中でも“日本刀”はこの玉鋼の性質を利用した最高の鉄製品だ(写真2)。ちなみに、焼けた刀を叩いて鍛錬している光景をテレビなどで見たことがあると思うが、形状を整えると同時に、鋼に含まれる不純物を微細に散らして優れた性質を与える役割がある。いわば“入魂の芸術”だ。日本刀は富士、桜と並び、日本を象徴する冶金芸術として世界から評価されている。また、日本の伝統、茶道でお湯を沸かす鉄器(釜)の中には美術館に陳列されるほどの逸品もあり、日本において鉄は道具という機能を超えた“芸術的評価”も高い。

一大産業となった鉄 ~近代製鉄法の登場

次に現在の近代製鉄の基礎となるエポックメイクにスポットを当てる。鉄の精錬技術は人類史と共にあったが、ヨーロッパ近代製鉄の礎となった「高炉法の発明」と「溶鋼法の考案」の2大革命は意外と新しい。近代高炉の原型は1400年頃登場したと言われる。当初は木炭で鉄鉱石を溶かしていたが、産業革命時には綿織物業の機械化を皮切りに拡大する鉄需要に応えるため、かつては鬱蒼としていたイギリスの森林の約半分が消え、その対応策として、1709年、イギリスで木炭の代替燃料であるコークス(石炭)を使った現在の高炉法での製鉄が始まった。こうして18世紀には、石炭を原燃料とする鉄の大量生産が可能になり、蒸気機関と並んでイギリス産業革命の原動力となった。その後、蒸気式送風機や熱風炉などが開発され、生産量や燃料消費の点で優れた高炉法は、現在までの約300年間にわたり、製鉄技術の主流を占め続けている。

19世紀後半になると、鉄道の発達や高層建築の増加、武器の改良などでさらに鉄の需要が高まり、それに伴って製鉄技術も改良された。特に革命的な技術は、1856年、イギリス軍の大型砲弾の発射に耐えられる砲身用材料開発を依頼され、ヘンリー・ベッセマーが開発した画期的な溶鋼技術(転炉)だ。鋼は高炉で生まれた銑鉄に含まれる炭素や不純物を徹底的に減らした粘りのある強靭な鉄で、この転炉によって10~20tの銑鉄を約15分で鋼に仕上げることを可能にした(写真3)。“鋼の時代”の到来だ。20世紀になると技術開発はさらに加速し、連続鋳造法の出現など多彩な技術革新を経て一大産業としてその地位を確立した。

日本近代製鉄の夜明け ~釜石で産声をあげた近代高炉

日本における製鉄業の近代化は、江戸時代末期、先進諸国から海の沿岸を守るという軍事上の理由から始まった。1853年の黒船来航の際には、江戸幕府は大砲・大船製造の禁を解き、国内における大砲鋳造を国防の要とした。その材料となる高品質の銑鉄を生み出したのが、多くの鉱山や木炭となる森林を持ち、水に恵まれた釜石「大橋・橋野高炉」だ。日本で初めて砂鉄を原料とするたたら製鉄ではない、鉄鉱石を原料とする洋式高炉によって粘りのある品質の高い銑鉄の製造に成功した。最初に出銑された12月1日(1857年)は、「鉄の記念日」となっている。

「餅のごとき岩鉄」と言われる優れた鉄鉱石を使った銑鉄は、大砲鋳造のための原料として高い評価を得た。これが日本近代製鉄の夜明けであり、そのときの立役者が、“日本製鉄業の父”と呼ばれる南部藩士・大島高任だ。彼は西洋からの技術を鵜呑みにせず、たたら製鉄などの優れた土着技術との融合によって独自の「日本式高炉」の建造を実現した。その後、水戸藩の鋳砲事業が中止になった後も、鋳銭事業や農具、生活用具のための材料として、着実に新たな地域産業へと成長した。ちなみにこの「大橋・橋野高炉」は、1957年には国の史跡に指定されている。

技術の移入はその国・土地の条件を考えたうえで、“小さく生んで大きく育てる”取り組みが重要だとする大島のパイオニア精神は、その後、田中長兵衛の釜石鉱山田中製鉄所に受け継がれる。1894年には日本で初めてコークスによる出銑に成功し、当時の農商務大臣・榎本武揚が現地視察に訪れ、そのときの榎本の確信が、官営八幡製鉄所の建設へと結びついた。そして1901年(明治34年)、大島高任の没後8ヵ月を経た11月、近代製鉄の“幕開け”となる官営八幡製鉄所が操業を開始した。そのときに大島の息子が八幡製鉄所の技術部長として原料調達に従事していたのは不思議な縁だ。

日本製鉄業の隆盛 ~鉄による日本の産業革命

1901年の官営八幡製鉄所創業は、日本の産業構造が軽工業から重化学工業へと移り変わる転換点であり、日本における産業革命が本格化し“現代”の始まりを告げる画期的な出来事となった(写真4)。1880年代に始まった軽工業の発展は、綿糸紡績業の生産地と消費都市や輸出港を結ぶ鉄道を発達させるとともに、造船、電力、機械、化学など諸工業の発展を促し、鉄鋼需要を急増させた。また、製鉄所は“周辺の地域開発”という側面も持っている。例えば八幡製鉄所は、今日までの約100年の歴史の中で、関連産業の芽を育てて一大工業地帯を築き、雇用の創出はもちろん、土地を造成し、ダムを建設し、鉄道を敷設し、港湾を整備し、住宅や病院、商業施設をつくるといった、現在の100万都市北九州市の骨格となる社会インフラづくりに大きく寄与してきた。

八幡製鉄所の創業によって、以降、日本人の生活スタイルは根本から変化することになる。交通の要となる鉄道レール、電力を生み出す電磁鋼板、さまざまな道具・容器用鋼材など、重要な社会資本として社会生活の向上に果たした役割は大きい。1872年新橋~横浜間で開通した日本初の鉄道レールは輸入に頼っていたが、1901年の官営八幡製鉄所創業によって国産化に成功した。現存する1902年製造のレールが、遥か遠方の札幌駅構内3番線に使われていた事実は、同製鉄所で生み出される鉄が日本全国の社会資本として活躍していた証だ(写真5)。そのレールには八幡製鉄所で生まれたことを物語る「製鐵所」の文字が刻まれている。レールはいま車両の大型化、鉄道の高速化に合わせて強度を高め、溶接技術の発展に伴うロングレール化を実現することによって、かつての鉄道の擬音である「ガッタンゴットン」を過去のものにしつつある。

また、20世紀初め、原動力が蒸気から電力に移り変わり、いまや生活に欠かせない電機機器が本格的な普及時代を迎える中で、1924年に変圧器や電動機、発電機に欠かせない電磁鋼板の国産化に成功。以後、電力の大量需要・消費社会の拡大において、電力ロスとの戦いを通して、現代社会の省エネや環境改善に貢献している。

などのさまざまな薄鋼板のルーツである容器用材料については、1923年、当時“戦略物資”だった缶詰用材料の国内生産に成功。1940年の連続圧延の技術導入を経て、1950年代のみかん缶詰などの輸出用食糧缶詰の需要増大に応え、以後、本誌でも度々取り上げているオレンジジュース、コーヒーを皮切りとする清涼飲料市場の醸成や、現在急激に伸びるビール・酒類の容器として大きな役割を果たしている。

 
 

食品保存の必要性から誕生した“缶詰”


缶詰のルーツは、フランス皇帝ナポレオンが、戦線において栄養があり新鮮な食糧が必要だと考え、懸賞付きで保存方法を募集したことにある。最初はニコラ・アペールが考案したコルク栓での瓶詰方法(1804年)が使用されたが、その後、1810年にブリキ板をハンダ付けした缶詰が“ブリキ缶の開祖”と呼ばれるイギリス人の商人、ピーター・デュラントにより発明された。
19世紀のヴィクトリア女王時代のイギリスでは、ブリキ缶は貿易を通して重要な成長産業となり、海外で缶詰にした新鮮な食品がイギリス人の食卓を賑わせた。また現在では珍しくない缶の美しい装飾もヴィクトリア女王の時代から始まったと言われる。その後、アメリカもブリキ板の生産を開始(1858年)。マッキンレー大統領による保護政策(1890年)以降、イギリスを抜く世界ブリキ板製造の王座を占めるようになった。黒船で知られるペリーは北極に渡る際に、重要な食糧として缶詰を持参したと言われる。

日本の缶詰登場とブリキの発祥


日本における缶詰の登場は、1871年(明治4年)、長崎で外国語学校の司長を務めていた松田雅典が、フランス人教師のレオン・ジュリーから缶詰の製造法を伝授され、鰯油漬缶詰を試作したのが始まりだとされる。当時は缶詰のことを、機能そのものを表す「無気貯蔵」と呼んでいた。その後約50年、ブリキ原板は輸入に頼っており、ブリキ製品は上等な舶来品で、明治後期にはブリキ製のバケツも高価なものだった。そして、1923年(大正12年)にはドイツ人の指導のもと、官営八幡製鉄所がブリキ原板の国産化に成功し、以降、庶民生活に欠かせない道具としてさまざまなブリキ製品が生活に浸透した。今日のスチール缶のルーツでもある。
ちなみに、ブリキ(薄板)は幕末時代、横浜の外国人居住地の建築現場で、イギリス人技師が鉄の箱に入ったレンガを指差し「brick=レンガ」と言ったのを、日本人の職人が鉄の箱を「ぶりき」というものだと勘違いしたことが語源とされている。

 
 

参考文献:
 「缶詰-その器のすべて」(新日鉄編)
 「物が語る世界の歴史」(綿引弘著、聖文新社刊)
 「日立金属(株)資料」
 「金属は人体になぜ必要か」(桜井弘著、講談社刊)